孤児院訪問(ZINDABAD DEMOCRACY 12号より抜粋ー3)

孤児院訪問

私の認識がしっかりできていなかったというか、これまでパキスタンにあるワタン孤児院やシタラ孤児院を訪問してきて、孤児院はRAWAが直接運営しているものとばかり思っていた。
ところが、アフガニスタンに来て、AFCECO(Afghan Child and Education Care Oranization)という組織が運営しているということがわかった。もちろんパキスタンの孤児院もそうであるという。私たちの目はヘワドにばかり向いていたようだ。

カブール到着の翌日、朝から早速一つ目の孤児院に行った。カブールの町の中心から南西に少し離れた新しい地域のようである。

孤児院の建物は大きめの普通の住宅。隣は雑貨屋さん、八百屋さん。パキスタンでもアフガニスタンでも家の入口は背の高い大きな門で閉じられている。携帯電話で来たことを伝えると門番が開けてくれる。そして車が入るとすぐさま門は閉じられる。建物はまだ新しく外観もきれいである。中庭もある。まだ本格的な春ではないので花は咲いていないがバラの木が植えられている。

建物に入ると食堂の向こうにテレビを置いた広間がある。10人余りの子らが床に座ってアニメを見ている。みんな行儀よく座っている。床にはカーペットが敷き詰められている。たくさんのぬいぐるみが飾られている。子どもたちはアニメに夢中で初めは私たちに注意を払わない。子どもたちをひきつけていたアニメは「トムとジェリー」だった。各部屋を見せてもらう。どの部屋も整理整頓が行き届いてている。2段ベッドが入れられていて、カバーがきちんと掛けられていた。1階には洗濯室もあって大柄の中年の婦人が働いていた。院長さんの部屋で話を聞く。部屋にはだるま形によく似た薪ストーブがある。昼間でも部屋の中は寒い。さっきのおばさんが来て火をつけてくれる。すぐに暖かくなりほっとする。院長さんはまだ若い男性。今カブール大学で学んでいると言っていたが、部屋にはそれらしい本も置いてあった。この孤児院は6歳から12歳の子どもたちが男女一緒に暮らしている。現在70名。この子らの一人ひとりにスポンサーが付いている。例えば、教育、医療、生活、フル(すべて)、など、サポートする項目があって、スポンサーは自分で選んでサポートするということである。問題は、すべての子どもにサポーターが付いているわけではないということ。不足分はRAWAへの支援金で賄っているという。イタリアやアメリカのスポンサーは子どもに会いに来るし、自分の国に呼んで滞在させることもあるという。学校は公立学校が歩いて5分のところにあり、そこに通っている。スポンサーは、アメリカ、イタリア、オーストラリア在住の人々だ。

食事・そうじ・洗濯などの子どもの世話は、女性2人でしている。コンピューターの先生もいて、若い男性で、話をするとなんとパキスタンのケワ難民キャンプのRAWAの学校で学んだという。ぐっと親近感が増した。子どもたちと日本から持っていったおもちゃで遊ぶ。コマ、けんだま、紙風船、折り紙、スーパーボールなどである。コマとけん玉はなかなかできないが、教えると一生懸命練習している。翌日訪れると、早速コマの腕前を披露してくれた。子どもの技術習得は早い!この孤児院で一人だけクマのぬいぐるみをずっと抱いている子がいた。フリースのジャンパーのフードもかぶったまま。何か気になる子だった。聞いてみると、継母に虐待され、焼け火箸を押し付けられるなどしていたそうである。孤児院に来て笑顔も出てきたようで、私たちにもにっこり笑ってくれた。ほかの子もこの子には優しく対応しているようで安心してそこにいるように見えた。午後は比較的近くの女子孤児院を訪問した。家の作りなど良く似ている。ここは8歳から16歳の女の子たちばかり56人が暮らしている。子どもたちの集う部屋にはストーブが焚かれていて、暖かすぎるほどである。この部屋にもテレビがあり、ここでは子どもたちはドラマを見ていた。この孤児院で驚いたことは、立派な図書室があること。もちろん欧米の誰かの寄付でできたらしい。美術を学ぶ部屋もあり、画材がほしいと言っていた。また女の子たちの孤児院だからだろうか、大きなバスタブの置かれたバスルームもあった。地下にはスポーツジムがあり、卓球台、マット、トランポリン、運動マシーンなどが置かれ、ジャージーに着替えた子どもたちが自由にそれで遊んでいた。その横の方には区切られた一角があり、薬局の様に薬を並べた棚があり、診察室、顕微鏡を置いた検査室がある。週に3回、午前10時から午後2時の間医者がここに来て、健康について基本的なことを教えてくれるという。検査する人(検査技師?)もいるそうだ。

子どもたちの話を聞いた。バーミヤンからきたSUSAN の話を紹介しよう。年齢は16歳。大仏破壊のときは8歳だった。01年のタリバンによるヤカオラン殺戮事件のとき、父は畑で働いていたところをどこかに連れ去られ、殺された。母は再婚した。5人兄弟で、3人の姉妹はこの孤児院にいる。二人の男兄弟は違う孤児院にいる。二人の姉妹は現在1年間イタリアのサポーターのところに行っているという。学校の勉強で好きなのはパシュトゥー語と英語。卒業したら大学へ行きたい。大学は無料だが本代などは自己負担である。孤児院から通学することはできる。大学を出て、故郷バーミヤン、ヤカオランでドクターになりたいという。今一番したいことは本を読むこと。歴史の本や小説が好きである。ここにはライブラリーがあるから本はあるが、もっとほしい。

もう一人のジャミーラはとても内気で顔を合わせようとしないし、話もしない。ジャミーラはヌーリスタン出身でヌーリスタン語しか話せない。彼の地はタリバンが強いので女の子は学校に行けない。母親だけがいて、多分父親は病死だろうという。学校に行っても言葉がわからないので、ここでダリー語を覚えてから学校に行くという。この孤児院にはジャララバード出身でヌーリスタン語のわかる子が一人いて通訳してくれているそうだ。

ここでも持っていったおもちゃやリコーダーで大いに盛り上がった。もう一つ男子孤児院を訪問した。ここは引っ越したばかりで建物も完成しているとは言い難い。前の建物の契約期限が切れ、子どもたちが同じ学校に通えるようにと通り一つ隔てたこの建物に越してきたという。まだすべての荷物は来ていないようで、本来ベッドで寝ているがまだ布団を床に敷いて寝ているという。子どもたちは長い冬休みを自分の家に帰ってすごしてきて、新学期開始に向け、孤児院に帰ってきているところだという。今年は選挙があるため新学期の開始が早くなったという。ところで子どもたちは皆明るく、元気な様子で何人かがインタビューに答えてくれた。そして、「家とこことどっちがいい?」という愚問に、期待に反して全員が「ここがいい。」と口々に言う。決して強制されて答えているようには見えない。理由を聞くと。「ここでは学校に行けるから。」という。重ねて学校が好きかと尋ねると全員が大好きだと目をキラキラさせて言う。日本の教師が聞いたら涙を流しそう・・と思った。帰り際一人の男の子が急に立ち上がり、ボブ・ディランの歌を英語で歌ってくれた。だれに教わったか尋ねると、この孤児院に3カ月滞在していたアメリカ人が教えてくれたという。

7日にイタリアメンバーと会食をしたが、そこが孤児院を運営するAFCECOの事務所だった。階段の踊り場には懐かしいパキスタンの孤児院の子どもたちの写真も飾られていた。代表は若い30代の男性でヘラート出身という。小さな男の子が一人いる。孤児院に入りたいという希望が多く、今カブールでは五つの孤児院を運営しているが待機児童がたくさんいるという。もっと孤児院を増やす必要があるということだ。

今回五つあるうちの三つを訪問したが、子どもたちの生活は十分配慮されたものと思った。どの子も明るく元気なように見える。後で訪問した難民キャンプの子どもたちと比べると、特にこのような孤児院や生育環境が必要だと思った。今、個人のスポンサーによって賄われているこの運営方法、日本ではまだなじみが薄いが今後考えていく必要もあるのだろうか。
(K)

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