RAWA支援イタリアグループとの交流(ZINDABAD DEMOCRACY 12号より抜粋ー2)

RAWA支援イタリアグループとの交流

一、イタリア・グループと連絡がついた!

イタリアのRAWAサポーターたちが3月8日の国際女性デーに参加している。このことは、前から聞いていたことである。何年か前も、いっしょに参加してはどうかという誘いを、RAWAから受けた。問題は安全の確保である。何から何まですべてRAWAにオンブしてもらって良いのだろうか?今のアフガニスタンで、国際女性デーを祝うこと自体が抵抗であり、権力に対して反旗を翻すことにほかならない。彼女らだって、自分らの安全を確保するのに大わらわのはずだ。イタリアのグループはどうしてきたのだろうか。

いろいろ調べていくうち、現地アフガニスタンのイタリア大使館がセキュリティに関わっているらしいことがわかってきた。イタリアのグループは、何らかの形で自国政府のサポートを取り付けていたのである。それが何なのかは後になってわかるのだが、さすがだ。さて、私たちが日本大使館にかけあって、同様のサービスが受けられるだろうか。想像するまでもない。まずRAWAという組織を知らないだろうし、仮に知っていたとして、権力側からの指示でしか動かない、いや動けない彼らに、かようのことを望んではいけない。情報収集力に欠け、自分で思考し、判断することができないのだから。批判するつもりはない。それがごく一般的な「ニッポン人」なのだ。

少ない人数で参加する。今回、恒例のパキスタン・スタディツアーを断念したことで、ある種の踏ん切りが付いたともいえよう。とはいえ、誰もイタリアのメンバーを知ってい
るわけではない。とりあえずRAWAのウェブサイトのリンクをたどり、彼女らのホームページにあったアドレスにメールを送ってみた。なしのつぶてである。どうやらこのアドレスは使われていないらしい。やむなくRAWAにメールして、イタリアのメンバーの連絡先を教えてもらうことにした。入手した宛先に送ると、返事はすぐに来た。4月には自身が行くというローラさんから、七人のRAWAサポーターが3月5日にカブールに向けて発つというメッセージ。そして今回訪問するクリスティーナさんからも、イタリアのではあるが、携帯電話の番号を知らせてきた。カブールで逢うのはジーナ・ロロブリジーダ風、それともジュリエッタ・マシーナみたいな…、そんなシニョリーナだろうか。出発前から鼻の下がのびてしまったのは、もしかしてボクだけ?

二、イタリア・グループのゲストハウス

イタリア・グループが滞在しているゲストハウスに向かう。カブール川にほど近い、カルテ・チャーの一角だと思われるが、交差点名も目印になるようなものも記入されていない、私たちにすればかなりアバウトな地図なので、どうにも判然としない。RAWAのマラルさんにたずねても、「このあたり」と指すのは明らかにピントはずれの箇所。どうやら地図を読む習慣がないようだ。なにやら無駄に遠回りしている気がしないでもないが…。

それでもちゃんと着いてしまうのだから、ドライバーのロカイはたいしたものである。同じようなつくりの家がたちならぶ中に、そのゲストハウスはあった。セキュリティのため、ここにも表札や看板などはない。知らない限り絶対にたどり着けない、それがこの国の個人の家だ。イタリアグループはまだ戻ってきていない。待つことしばし。門が開き、ワンボックス・ワゴンが入ってきた。女性ばかりの一団、それがイタリア・グループであった。慣れた様子で、全員がスカーフをしている。門が閉められると、がぜん賑やかになった。お決まりの挨拶と自己紹介を交わす。CISDA(アフガン女性支援イタリア調整会)という組織。どこか沖縄を思わせる陽気で明るい笑い声。やはりイタリア人だ。さっそくランチを食べながらのミーティングがはじまる。駐留米軍の話に及んだので、沖縄普天間の問題、辺野古の闘争をすると、「イタリアでも同じ」「98年、北イタリアのスキー場で海兵隊戦闘機がロープウェーのケーブルを切断してゴンドラが落ちたの」「承認されている高度二千フィート以下で、しかも制限速度を超えていたのよ」「20人全員が死んだのに米国の軍法会議でパイロットは無罪になったわ」「追い出さなきゃダメね」。彼の地でも米軍の評判は芳しくないようだ。こういう人たちと、もっともっと手を取り合う必要がありそうだ。

メロディー・チャヴィスの『ミーナ』をイタリア語訳したからプレゼントするわ。ありゃりゃ、日本語版『ミーナ』を持ってくるのだった!代わりにというわけではないのだが、RAWA支援のきっかけになったアフガニスタン国際戦犯民衆法廷をかいつまんで紹介し、マブイ・シネコープの英語版『ブッシュを裁こう』をプレゼントした。驚いたことに、その晩のうちに見たらしい。国際女性デーの会場で「すごい仕事をしたものね」と言ってくれたのが印象に残っている。

三、カブールのイタリア人

イタリア・グループと一緒だったことで、大きな収穫が三つあった。一つめは、ともに3月8日の世界女性デーに参加できたこと。二つめは、救急病院と赤十字リハビリテーションセンターを訪問する段取りをつけてもらえたこと、三つめは、その活動内容について、多少なりとも知り得たことである。詳細については、それぞれの項にゆずるが、少しだけ触れておきたいことがある。

救急病院は、敷地こそアフガニスタン政府が無償で提供しているものの、人件費を含む全運営費をイタリアのNGOが負担している。カブールがメインだが、他二カ所に病院を持ち、年間の運転資金は八〇〇万ユーロ。国家のひも付きになりたくないから、イタリア政府からの援助は受けない。そう言うのは国際物流担当のマルチェロ。お金はどこから?イベントなどでTシャツを売るんだというが、まさかTシャツ販売で十億円にはならないだろう。ノブレス・オブリージュ。寄付の文化はキリスト教と関係があるのだろうか。

一方、赤十字リハビリテーションセンターのアルベルトはカブールの名物男のようだ。アフガニスタンが大好きで、かれこれ20年も住んでいる。イタリアから戻るたびに最新の義肢を持ち帰り、そのデッドコピーをセンター内の作業場で作らせている。バザールで手に入る物で作るから、十分の一以下のコストで作れるんだと笑う。作業をするスタッフの大半は障害者。ここでリハビリをおこないながら職能訓練を受けるわけだ。医療に社会復帰と雇用をも結びつけたアイデア。縦割り的思考のわが国では真似できそうもない。どちらの病院も、今はイタリア人の専門家たちが中枢を担っているが、現地スタッフを育成しながら、徐々に役割をシフトするのだという。スタッフ同士だけでなく、患者とスタッフの関係も、ファーストネームで呼び合う実に明るくほがらかなものだ。地雷で脚を無くした子ども、夫の親族に銃で撃たれた女性、発破作業で重傷を負った親子など、戦乱と貧困がもたらした悲劇であり、私たちの方が目を背けたくなるような光景であるにもかかわらず、院内にはそれほど重苦しい空気が漂っていない。

アフガニスタンの表玄関、カブール空港の新ターミナルビル。多くの人が利用しているはずだが、「日本の援助で建てられました」というプレートを、どれくらいの人が意識しているだろうか。物理的な「モノ」はあっても「生」が感じられない、箱物行政にありがちな傾向だ。立派なものを建てたと感心はしても、良い仕事をしているという感動が、残念ながら欠落している。人は感動したことしか記憶しない。言い換えると、心の琴線をふるわす何かが大切なのであって、それなくして人を動かすことはできないということなのだ。JICAを中心にしたカブール新都心計画が進行中らしい。私には根本的なベクトルの誤りとしか思えないのだが…。

四、これがイタリア流

このイタリア・グループ、かなり政治的な力を持っていると見た。カブールにイタリア文化センターをつくらせたのは、このグループを含むイタリアの市民運動の圧力である。カブールに到着後、まっ先に文化センターを訪問していることからも、そのことがうかがえる。次はプリント工場がオープンされるらしい。国際女性デーのイベントに参加するにあたり、イタリア大使館がセキュリティに関与する理由も、何となくわかる気がするのだ。

ゲストハウスの廊下には、イタリアの学校に通うアフガンの子どもたちの写真が飾ってある。毎年、孤児院の子どもたちの何人かをイタリアに招待し、一定期間学校に通わせているのだ。選抜こそは孤児院でおこなわれるが、飛行機に乗った後はすべてイタリアのサポーター個人が責任を持って仕切っている。支援する者も、支援される対象も、あくまでも個人なのである。その手法の効率や善し悪しは別として、あくまでも人間が中心である点がイタリアらしいところだ。

教育は大事なのだが、わが国の支援で作られたのは校舎というハコだけだった。教育を受けられる「しくみ」は放置されたままだ。日本主導の武装解除(DDR)も、こちらは仕組みだけで実効性がなかった。どちらも物質あるいは概念があるばかりで、人間が捨象されている。他方、イタリアが中心になっている二つの医療施設で「生きること」を感じたのは、人間と人間の距離、より人間に近い援助、もしかしたらこのせいだったのかもしれない。

そんな彼女らだが、世界中のどこに行っても、自分たちのスタイルを曲げないのだろうな。料理は、アフガニスタンで手に入る食材を使いながらも、イタリア風洗練を加えることを忘れないし、コーヒーも、持参したのか置いてあるのかは知らないが、エスプレッソを入れるためのパーコレーターまで用意していた。当初、同じところに滞在したら便利よと誘ってくれていたのだが、すでにムスタファ・ホテルを予約していたこと、七年前とどう変わったのかが気になったこと、イブラヒムの案内で調査に行くことも視野に入れていたこと、物販用アフガン・グッズの買い出しを想定していたこともあって遠慮した。一緒だったら楽しかったとは思うが、地理的な位置から、行動はだいぶ制約されたことだろう。

あんたら、イタリアに来たら泊まるところの心配は無用だよ。全国にメンバーがいるからね。屈託なく笑うイタリアのオバちゃんたちの元気のいいこと。そう、期待したシニョリーナはいなかった。上品だが肝っ玉母さん、そんな表現が似つかわしいと思うのはボクだけ?そんなシニョーラたちの集団だった。劇場に勤めることが決まったという、今はまだ学生の、ただひとりだけの二十代を除いて。世界のNGOは女性パワーで動いている。どうやって若い世代を取り込むか、イタリアでも同じ悩みをかかえているらしいが、それでも若いメンバーがグループにいるというのは頼もしいかぎりだ。私たちがイタリアに学ぶべきことは、芸術や文化だけではない。
(S)

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